平安末期から鎌倉初期の活躍した下野出身の武士、それが那須の与一です。本名は宗隆といい、弓を得意とし、源平の争乱では源義経に従って活躍しました。屋島の戦いで馬上から平家船上の扇の的を射落とし、敵、見方を問わず、賞賛を浴びた話は有名。古しえのロマンを求めてめぐる八溝路の旅は、歴史と語り、そして自然とふれあう浪漫紀行です。
1.那須家墓所・玄性寺

  (大田原市)
大田原市福原の玄性寺境内には、間口8m奥行4mの囲いの中に那須氏一門の墓が7基並んでいる。福原は鎌倉・室町時代に豪族の那須氏が活躍した場所で、この墓は古来より那須与一宗隆のものと伝えられている。
2.那須神社

(大田原市)
この神社は舘明天皇の御代(奈良朝630年)の創立で、延喜式神明帳にも上撰されている由緒ある神社です。又、源平合戦屋島の戦で、那須与一宗隆が扇の的を射る時に祈願した神社といわれており、のちに俳人芭蕉も訪れています。
3.那須国造碑 

国宝(大田原市湯津上)
  
文武4年(700年)に死去した那須国造で大領那須直韋提(あたいいで)の遺徳を偲んで帰化人が石に刻んだ碑が国宝に指定されている。現在安置してある堂は水戸光圀公の令により作られたと伝えられ、日本三古碑の一つで、最も古い。
4.浄法寺大日堂

(那珂川町 旧小川町)
須藤権守貞信が、勅命を受けて怪賊を討伐した功により那須の国を給わり神田城を築城し、乾の鎮として大日堂を建立したと伝えられる。
5.御霊神社 

(那珂川町 旧小川町)
那須与一宗隆は、文治5年(1189年)京都山科において急死したが、供人角田四郎が分骨して帰り、与一宗隆の後嗣五郎之隆のよって建久元年(1190年)廟所御霊神社が造られたと伝えられる。
6.那須神田城跡

(那珂川町 旧小川町)
9.駒込の池

(大田原市 旧黒羽町)
那須氏の祖、須藤権守貞信が天治2年(1125年)に築城したと伝えられる。那須与一宗隆は、嘉応元年(1169年)那須資隆の11男として神田城で生れたと伝えられる。

この池は灌漑用水地であるが、この辺に野飼の馬が放たれていた。その中の一際すぐれた牝馬から生れたのが那須与一宗隆が屋島の戦いで扇の的を射た時の乗馬「鵜黒の駒」であり、この地で生れ育ったと伝えられている。
7.「那須記」

(那珂川町 旧馬頭町)
10.高館城跡

(大田原市 旧黒羽町)
「那須記」(巻12)の中で、与一宗隆が、屋島の戦で的を射るとき、心中で宇都宮明神を祈り射落とすことができたなら武茂荘を神領とするとし、願を達成した宗隆は宇都宮明神に参詣して、武茂荘を寄進し以後宇都宮領となったと記されている。
那須太郎資隆は宗資の後嗣となり、この高館に城を構えた。那須与一はこの地に生れ育ったと伝えられここからの眺望はすばらしく、遠く那須・日光連山を望み、脚下には那珂川の流れと静かな田園風景が開けています。
8.光厳寺

(大田原市 旧黒羽町)
11.那須温泉神社

(那須町)
那須与一宗隆が高館城南地に建立したと伝えられ、康元2年、那須資村の代に現在の寺宿に移された。臨済宗の寺院。


この神社は舘明天皇の御代(奈良朝630年)の創立で、延喜式神明帳にも上撰されている由緒ある神社です。又、源平合戦屋島の戦で、那須与一宗隆が扇の的を射る時に祈願した神社といわれており、のちに俳人芭蕉も訪れています。